現実科学ラボでは、各分野で活躍している専門家とともに「現実とは?」について考えていくレクチャーシリーズを2020年6月より毎月開催しています。
第11回となる今回は、2021年4月20日、慶應義塾大学教授の今井むつみさんをお迎えしました。また後半のパネルディスカッションでは、特別ゲストとして能楽師の安田登さんもお迎えしました。本記事では、当日の簡単なレポートをお届けします。
現実科学とは
現実科学ラボ・レクチャーシリーズは、デジタルハリウッド大学さまの提供でお届けしています。
今井むつみさん
1989年慶應義塾大学大学院博士課程単位取得退学。
1994年ノースウェスタン大学心理学部Ph.D.取得
現在―慶應義塾大学環境情報学部教授
専攻―認知科学、言語心理学、発達心理学
著書―『英語独習法』岩波新書、『ことばと思考』岩波新書、『 学びとは何か――〈探究人〉になるために』岩波新書、『 言語と身体性』岩波講座コミュニケーションの認知科学第1巻( 共編著)、『ことばの発達の謎を解く』ちくまプリマー新書、『 親子で育てることば力と思考力』筑摩書房、『 言葉をおぼえるしくみ――母語から外国語まで』ちくま学芸文庫( 共著)、『新人が学ぶということ――認知学習論からの視点』 北樹出版(共著)ほか
安田登さん
下掛宝生流能楽師
1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。 能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。 著書に『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』、シリーズ・コーヒーと一冊『イナンナの冥界下り』(ともにミシマ社)、 『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0』(春秋社)など多数
現実は「いま、ここ」だけなのか?
「いま、ここ」だけが現実なのか?という問いかけから講演は始まりました。認知心理学、発達心理学、言語心理学などを専門とする今井さんは、HMと呼ばれる患者の症例を手がかりに考察を始めます。
患者HMは、てんかんの治療のために27歳の時に両側の内側側頭葉の一部分を切除した結果、重篤な記憶障害に陥ってしまいました。16歳以降の記憶が失われ、さらには彼は新しい出来事を全く記憶できなくなってしまったのです。その日の曜日、朝食のメニュー、10分前に何をしていたか……。何度会っても新しい人は彼にとって初対面であり、自分の知らぬところでいつの間にか年老いている自分の容姿にも首をかしげる日々です。
ここから今井さんは、記憶は「現実」の認識に不可欠だろうと言います。私たちの「現実」は、「いま、ここ」だけでなく、過去・現在・未来が渾然一体となったものなのです。
ことばと記憶
人は他の動物には見られない高い言語能力を持っています。言語によって人は「いま、ここ」にないものについて語り、考えることができる、さらには抽象的な概念を自分の身体の一部とすることができるのだと今井さん。
そしてことばは、記憶と強い関係を持っています。今井さんが紹介した古典的実験では、ある絵を見せたときにことばでどのようにラベルづけするかによって、その後思い出した際の絵の傾向が変化するというもの。
他にも、実験実施者が自動車事故の映像を提示した後「自動車同士がXXしたときに、車は大体どれくらいの速さで走っていましたか?」と参加者に質問をします。その際、XXに「激突した / smashed」「衝突した / collided」、「どんと突き当たった / bumped」、「接触した / contacted」、「ぶつかった / hit」といった様々な語を入れたところ、「激突した / smashed」と言われた参加者はより大きなスピードを回答する傾向が見られました[efn_note]Loftus, E. F., & Palmer, J. C. (1974). Reconstruction of automobile destruction: An example of the interaction between language and memory. Journal of Verbal Learning and Verbal Behavior, 13, 585-589.[/efn_note]。
同じ映像を見たにも関わらず、記憶を呼び出す際に使ったことばが、その記憶を歪めてしまうことを示唆する一例です。
ことばは世界の何を切り取っているのか?
今井さんは、「ことばは、私たちの連続的で多層的な感覚世界の中から、一つの次元のみにスポットライトを当てて分節する」と語ります。これはどういうことなのでしょうか。
かつて今井さんらのチームが行った実験[efn_note]Imai, M., & Mazuka, R. (2007). Language‐Relative Construal of Individuation Constrained by Universal Ontology: Revisiting Language Universals and Linguistic Relativity. Cognitive Science, 31(3), 385-413.[/efn_note]では、上の図のようにあるオブジェクトを見せて、「同じ」のはどれかと参加者に尋ねるというもの。結果から分かったのは、それを「物体」として見た場合には、人は形と機能(shape item)に着目する一方で、それを「物質」として見た場合には素材(material item)に着目して選ぶのだそうです。
このように、目の前のモノは形、色、テクスチャなどの多感覚の特徴を持つ一方で、ことばは特定の一つの感覚次元にのみ注目し、分類します。つまり、ことばは「同じ形、あるいは同じ素材」のような複数の異なる感覚次元の概念を表すことをしないのです。
さらに今井さんは、「人は多感覚を合わせた全体の類似性で『同じ』を決めておらず、対象をどう名付けるか(モノの名前か物質の名前か)が『同じ』を決める前にくる」と続けます。つまり、人は何かを見たときに「これはモノだから(物質だから)、ここに着目すれば『同じ』がわかる」と発想するのです。これは、ことばが「同じ」の判断基準を作っているとも言えます。
「色」は抽象的な概念
私たちの世界にはさまざまな「色」が溢れていますが、こうした色の名前による分類は言語によって大きく異なります。波長の連続的な変化をことばが切り取ることで、あたかもそれぞれの色が個別に存在しているかのように感じられるのです。
例えば、日本の信号において「黄色」と呼ばれている色は、オランダ語においては「オレンジ」とされています。しかも事前に提示した黄色系統の色を思い出して選んでもらう実験を行う際、信号機という文脈を取り去って(色だけを抽出して)色を提示すると正しい回答が得られる一方で、信号機のフレームに入れて色を提示するとオランダ語話者はオレンジに、ドイツ語話者は黄色に寄った色を選びやすくなるのだそう。
…
現実は「いま、ここ」を超えて記憶と不可分であること、私たちは言葉のフィルターを通じて世界を認識しており、その認識は記憶とことばが絡み合う主観的な経験であるということ。このように講演をまとめて、今井さんのレクチャーは締めくくられました。
今井むつみさんにとって、現実とは
いま自分が現実(リアル)と思っていること