現実科学ラボでは、各分野で活躍している専門家とともに「現実とは?」について考えていくレクチャーシリーズを2020年6月より毎月開催しています。
第7回となる今回は、2020年12月12日、研究者の養老孟司さんをお迎えしました。
スポンサー
現実科学ラボ・レクチャーシリーズは、デジタルハリウッド大学さまの提供でお届けしています。
養老孟司さん
1937(昭和12)年、神奈川県鎌倉市生まれ。1962年東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1995年東京大学医学部教授を退官し、東京大学名誉教授に。著書に『からだの見方』(サントリー学芸賞受賞)『形を読む』『解剖学教室へようこそ』『日本人の身体観』『唯脳論』『バカの壁』『「自分」の壁』『養老孟司の大言論Ⅰ~Ⅲ』『身体巡礼』『骸骨巡礼』『遺言。』など多数。昆虫を通して生命世界を読み解きつつ、「身体の喪失」から来る社会の変化について思索を続けている。(写真:新潮社)
「その人の行動を変えるものがその人にとっての現実」
養老:僕は競馬の馬券を見たことがありません。たとえそれが落ちていてもきっと拾わないでしょう。けれども僕は虫が好きだから、虫が歩いているのを発見したら必ず立ち止まって正体を確かめる。このように、その人の行動に影響を与えるものこそ、その人にとっての実在であり、現実であると僕は思います。
現実は脳が作っている、というのは恐らく間違いない。では、脳の中のどこかに「現実感」を与える機能を持った場所はあるのでしょうか?これは「意識」の問題にも通じている気がします。
例えば離人症(自分が自分ではないと感じる症状)は、この問題に通じているかもしれない。離人症になると、まるで羊水の中に浸かっているように、あらゆる刺激がフィルターを一枚挟んで感じられるようになるとされています。このような「現実感がなくなってしまった症状」を解明できれば、その裏返しとして、脳の側から現実というものに迫れるかもしれません。
藤井:現実と意識はどういった関係にあると思われますか?
養老:どちらも非常に近いもののように思えますね。
藤井:現実感は強いのに意識がはっきりとしていない、もしくはその逆の状態は何か考えられるでしょうか。
養老:夢遊病は、現実感は強いのに意識がはっきりとしていない一例かもしれません。そして意識ははっきりとしているのに現実感がないのが離人症だと解釈することもできそうですね。
藤井:自然には存在していなかった「現実」を人間が自分たちで作ってしまったことの筆頭が、「お金」ですね。他にも例えば、「宇宙人にさらわれて脳を手術された!」と言う人は、宇宙人という概念が誕生する前はいなかったわけで、そうした発言は「宇宙人」なるものが世の中で定義されて初めて成り立つ世界理解の仕方だよなと思います。
抽象化の極限としての神
藤井:世界理解という話で言えば、養老先生は「神」というものをどのように解釈しているのですか?
養老:人は、多様な感覚入力から整理された概念を作ります。例えば、木になる赤い球体を観察してりんごと名付け、大きいりんご、小さいりんご、切ったりんごなどのバラエティを全て「りんご」と分類できるようになります。
さらにそこにナシやブドウが出てくると、りんごの一つ上の概念、「果物」で以ってそれらを結びます。そうやってどんどん分類の抽象化を行なっていくと、最後には一つになるはずです。宇宙のあらゆるもの全てを包含した、一つの「何か」に行き着きます。唯一絶対の神は、そのような存在ではないでしょうか。
藤井:なるほど、抽象化の究極は一つにまとまらなければいけない!
養老:神についてこのように考えると、その裏側には階層性が見え隠れしているような気がします。人の思考が階層性を持っているのは、言語のせいかもしれませんね。例えば英語は、アルファベットを先頭から末尾にかけて並べることで単語を作るという階層性を持っています。一つ一つの文字が意味を持っているわけではない。しかもその中には、dogの文字を入れ替えるとgodになってしまうなどという極端な階層性まで入っている。
藤井:階層性……分類。分類することは、すなわち理解することですよね。世界にある多様なものを、抽象化せず、多様なままで理解する方法はあるんでしょうか?
養老:それは非常に難しいと思います。いつも、何かを概念化しても、新しい様々な材料を集めてきてそれを見直すとガラガラと崩れてしまう。具体と抽象を行ったり来たり、その繰り返しですね。
感覚と概念
養老:脳と外界をつなぐのが感覚ですよね。僕は最近、感覚と抽象化された概念は何が違うんだろうと考えています。そこで思ったのは、感覚は異なるもの、差分を認知する一方で、概念は異なるもの同士を統合、同じにする。
数はその典型です。うさぎだろうが犬だろうが、1匹は1匹であり、こうした考えは万物に共通です。そこでふと、この「同じにする」能力は人間にしかないのではないか、人間の意識の特徴なのではないかと思いました。
そして動物が言葉を作れないのは、感覚による差分、細部に密着してしまい、「違い」だけで生きているからなのではないか。それと引き換えに彼ら動物は感覚が鋭敏なのではないか。
藤井:先生は、人が抽象化した概念の中だけで生きることに対して批判的な立場を取られていると思うのですが、感覚と概念にはどのように折り合いをつけたらいいんでしょうか?
養老:グローバリゼーションはその典型かもしれませんが、コントロールしやすいように頭の中だけで世界を作ると、コントロールできないものが出来上がってしまう危険性があります。綺麗に一元化した世界を組み立ててしまうと、不測の事態が起きた時に簡単に壊れてしまう。そういう意味で、日常的に感覚的なものに触れるような経験は必要と思います。感覚的なものに触れることを通じて、絶えず頭の中の概念を訂正するんです。
養老先生にとっての「現実とは」
あなたを動かすもの。
この養老さんの言葉を以って、イベントは締めくくられました。