デジタルハリウッド大学と現実科学ラボがお届けする「現実科学 レクチャーシリーズ」。
「現実を科学し、ゆたかにする」をテーマに、デジタルハリウッド大学大学院 藤井直敬卓越教授がホストになって各界有識者をお招きし、お話を伺うレクチャー+ディスカッションのトークイベントです。
X(旧Twitter)のハッシュタグは「#現実とは」です。ぜひ、みなさんにとっての「現実」もシェアしてください。
概要
- 開催日時:2024年3月22日(金)19:30~21:00
- 参加費用:無料
- 参加方法: Peatixページより、参加登録ください。お申込み後、Zoomの視聴用リンクをお送りいたします。
視聴専用のセミナーになりますので、お客様のカメラとマイクはオフのまま、お気軽にご参加いただけます。
ご注意事項
- 当日の内容によって、最大30分延長する可能性がございます。(ご都合の良い時間に入退出いただけます。)
- 内容は予期なく変更となる可能性がございます。
- ウェビナーの内容は録画させていただきます。
プログラム(90分)
- はじめに
- 現実科学とは:藤井直敬
- ゲストトーク:松本紹圭氏
- 対談:松本紹圭氏 × 藤井直敬
- Q&A
登壇者
松本紹圭
産業僧/Ancestorist。株式会社Interbeing代表取締役。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leaders。日本政策投資銀行(DBJ)共創アドバイザリーボード。武蔵野大学客員教授。未来の住職塾代表。東京大学哲学科卒、インド商科大学院(ISB)MBA。
著書『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』は世界17ヶ国語以上で翻訳出版。翻訳書に『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』。noteマガジン「松本紹圭の方丈庵」発行。ポッドキャスト「Temple Morning Radio」は平日朝6時に配信中。Forbes JAPAN(フォーブスジャパン)2023年6月号で、「いま注目すべき「世界を救う希望」100人」に選出。
藤井 直敬
株式会社ハコスコ 取締役 CTO
医学博士/XRコンソーシアム代表理事
ブレインテックコンソーシアム代表理事
東北大学医学部特任教授
デジタルハリウッド大学 大学院卓越教授
MIT研究員、理化学研究所脳科学総合研究センター チームリーダーを経て、2014年株式会社ハコスコ創業。主要研究テーマは、現実科学、適応知性、社会的脳機能の解明。
共催
※本稿では、当日のトークの一部を再構成してお届けします。
共通の現実がない時代に自分の現実を定義する
藤井 まずいつものように、現実科学とは何か?ということを僕の方から簡単に説明したいと思います。僕自身が科学者として世界を見ていた時、そしておそらく普通の人が世の中を考える仕組みもそうだと思うんですけど、全ての人に共通の基底現実があって、意識的な自分がそれを見ている、これが現実である、と考えるのが一般的だと思います。
一方、動物的な私たちの世界はそんなにキレイではなくて、意識的な自分を作っているのは無意識の自分なんですね。その脳の無意識のところっていうのは、基底現実の外側、本来は存在しないものも、見えたり聞こえたりして“ある”と感じてしまう。ある意味、神話的な世界観です。
その二つの対立する世界の中で、私たちは行ったり来たりしながら生きているんですけれども、最近ではここにテクノロジーの力によって人工的な現実というのが生まれて、基底現実と区別がつかなくなってきている。この新しい世界観の中で、どういう社会を作っていくとより豊かな世界が作れるのかというのが、現実科学のテーマです。
こういう世界では、すべての人が異なる現実の中で生きているので、自分の現実を定義しないと、他人の現実も見えません。そのために、現実って何ですか?というお話を皆さんから聞くのがこのレクチャーシリーズの趣旨です。ということで、今回は僧侶の松本紹圭さんをお招きしています。松本さん、よろしくお願いします。
僧侶のフロンティアをどのように広げられるか
松本 藤井先生、ありがとうございます。私は僧侶をしておりますが、公務員でも様々な公務員がいるように、僧侶といっても幅が広いといいますか。私の場合は、現代において僧侶のフロンティアをどんな風に広げられるだろうか?ということを色々とやっています。
産業医ならぬ「産業僧」として、企業に働く人たちに対してどんな仏教の知恵であったり、方法論であったり、あるいは文化が貢献できるのか、という活動もしています。今回はそんな風に、仏教思想や哲学、プラクティス、文化などを背景においたところから材料出しをさせていただいた上で、現実についての対話ができればと思っております。
インタービーイングとしてのヒューマンビーイング
松本 最初に、「私たちがどのようにこの世界に存在しているのか」を仏教ではどのように考えるかというと、ひとつのキーワードは「インタービーイング(間に存在するもの)」である、ということかなと思います。
今は亡きティック・ナット・ハン師が「ヒューマンビーイングはインタービーイングである」という言葉を残されていますけれども、つまりは関係性的な存在であり、関わり合いの中で成り立っているんだと。切り離されて独立した「私」があるわけではなくて、私というのはどこまでも「私たち」として存在しているんだ、というのが大乗仏教の根本的な考え方ですね。その「私たち性」を拡張していくと、空間軸と時間軸というのがあり得るかなと思います。
共通言語としての「ご先祖様」
松本 身近な例で面白いんじゃないかと思っているのがお墓です。私はお墓が結構好きで、海外に行った時も墓地を歩いてみるんですけれども、散策すると石が並んでいますよね。そこで、ここに確かにこういう人がいて、こういう人生を送って、何年に亡くなったんだな、ということを思うわけです。お墓参りに行った時も、石に向かって手を合わせたりする。
でも、ある意味での現実的に言えば、そこには石と灰、骨ですね。そういう“モノ”しかないわけです。別に、そこに人がいるわけじゃない。なんだけれども、私たちは無意識にその存在を感じている。見えないんだからいないよね、関係ないよね、という風には扱わない。これは考えてみるとすごいことで、その死者、ご先祖様という存在は古今東西、宗教や民族も問わず、みんなが大事にする存在、共通の存在としてあるのが面白いことだと思うんですね。
このご先祖様というのは時間軸なわけですけれど、どうやって切り離された私から、私たち、インタービーイング的な存在として私自身の現実を広げていけるかということを、仏教はずっと昔から教えようとしてくれています。
空間軸から「私たち性」を考える
松本 今日はテクノロジーの話もあったので、空間軸からも考えてみたいと思います。私が注目している理論として、「道徳次元」という話があります。こちらは、鄭雄一先生の『東大教授が挑むAIに「善悪の判断」を教える方法』という本に載っている図なんですけれども、道徳というのは仲間らしさの範囲なんである、と。
私が一人でここに存在しているという感覚から、だんだんあなたと私、というものが出てきて、さらに何かしらの共通項、会社だとか、日本人だとかでグループを作って、私たち性というのが出てくるわけですね。そうして道徳の次元が広がっていく。道徳次元3くらいになると私たちになる。でも仲間である私たちがいれば、敵とは言わないまでも仲間ではないものも存在する。それも認めていく、というのが道徳次元4です。
あっちの人たちは私たちと相容れないものを持っているけれど、それでもあっちはあっちで大事にしているものがあり、仲間を作っている。相容れないとしても、このひとつの地球で一緒に暮らしていかないといけない。どうすればやっていけるんだろう、と相手のことも思いながら世界を作っていくことができる寛容性・多様性ですね。
ビジネスにおいても、人間のことだけを考えるのではなく、サステナビリティであったり、気候変動の問題であったり、もっと広い目で物事をとらえないといけないという風になってきていますよね。そうやって、自分ごととしている現実の範囲、空間が広がっていくことが大事なんだ、ということです。
先祖や祖先を考えることは未来を考えること
松本 時間軸では先ほどお墓の話をしましたけれども、私はご先祖、あるいは祖先ということに注目しています。2年半前に、『The Good Ancestor』(邦題『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』)という本を翻訳する機会がありました。仏教は先祖を大事にするという文化がありますが、この本を翻訳してからそれは決して過去に閉じたことではないんだな、ということが理解できました。
つまり、未来の人たちから見た時、例えば2124年から見た時に、私たちは100年前に生きていた先祖ということになりますよね。ここに集まっている人も、必ずみんな先祖になっている。その時に、どんな先祖として振り返られるんだろうかが問われているわけですね。
過去5万年のうちに1000億人が存在した。未来の世代は7兆人近くいると。今、地球上に生きている私たちは80億人がいて、このすごく大きな円にはさまれている。この私たちの現実の舵取り次第で、次の世代がどうなるのかと。そういうところに、私たちは立っているということですね。
仏教の知恵で世界の見方を耕す
松本 先ほど藤井先生からも、科学的な世界観における現実もあれば、私たち自身が感覚的にとらえている現実も同時にある、というお話がありました。人それぞれに色々な経験があり、仏教であればカルマという言葉を使うかもしれませんが、色んなものを蓄積してきて、自分自身の心で世界をとらえている。その時に、本当に十人十色の心のクセがありますね。
ですから、人の数だけ現実があるとも言えますけれども、現実は作り変えられる、ということでもあります。どれだけ自分ごとの範囲、私の範囲を拡張していけるのか。そういう発想が今までよりも私たちに必要な時代になってきている。
マインドフルネスでヒア・アンド・ナウなんて言いますけれども、今ここに立っている私というものが、時間軸においても空間軸においてもどういう系譜の中に立っているのかが問われている。仏教の知恵が多少なりともその見方を耕していく貢献ができれば、そのために色んな場面で僧侶の役目を果たせれば、と思って今日は来させていただきました。
未来のことを考えると不幸になる?
藤井 ありがとうございます。長い時間軸で見るということは、今より良くする力があるなと思いつつ、一方で人は未来のことを考えて不幸になっていると思うんです。一年後に僕の仕事はどうなってるんだろう?とか、お金や食べ物あるのかな?みたいなことを考え始めると、不安が襲ってきてね。だけど、動物はそんなこと全然考えないから。きわめて刹那的なので、時間軸を持っていない気がするんだけれども。
松本 人間って放っておくとモンキー・マインドで。過去の後悔を何回も思い出して何回も自分でダメージを受けちゃうとか、今ここで生活が成り立っているにも関わらず、一年後にどうなっているんだろうってことばかり考えて、今を楽しめない、味わえなくなってしまう。
私がなぜグッド・アンセスターの話をするのかというと、過去を振り返って、ちゃんと消化することが、次に進んでいく力になることがあるなと思っているからでして。ぼんやりとした後悔や不安に巻き込まれないためにも、過去と自分の関係をちゃんと作っていく、未来と自分の関係をちゃんと作っていく。それで、今ここにいるんだなということを日々位置づけ直していくような営みが大事なんじゃないかと思います。
日々、位置づけ直していくという営み
藤井 その、日々位置づけ直すというところが、僕が言っている現実を定義する、ということだと思っていて。そう言うと「毎日違うんだけど、それじゃダメなんでしょ」って言われるけど、違うのも変わるのも当たり前だから。今のあなたの現実を定義するところから始めるのが多分すごく大事なんだろうな、っていうのもあるんですよね。
松本 そうですね。仏教では「日々是好日」という言葉があります。最近話題になった映画で『PERFECT DAYS』というのがありますけれども、役所広司さん演じる主人公の平山が、トイレ掃除をする。なんてことない日々が続いて、事件というほどでもない出来事が本当にちょっとずつあるっていう。あれを日本語のタイトルにするなら、日々是好日になるかな、なんていうことを思っていました。
パーフェクトだからエブリデイ・ハッピーっていうわけじゃないんですよね。嬉しい日もあれば悲しい日もある。時にイライラしたり怒ることもあれば、ちょっと感動できる瞬間もあったり、日々の中に感情の起伏が色々あって。色々あるけど、それで良いんだっていうことですよね。ハッピー指数が高いから良いってことではなくて、なんであれそのひとつひとつを大切にしていく。
ある意味「いびつ」な現代社会とどう向き合うか
藤井 松本さんが先ほど産業僧っておっしゃったじゃないですか。働く人に寄り添うお坊さんっていう意味だと思うんですけど、そこでは皆さんが抱える問題にどのように対応するんですか?
松本 試行錯誤しながらやっているんですが、最近こういうことかなと思っているのは、会社って特殊な前提の中で運営されているんですよね。資本主義もそうかもしれませんが、必ず成長していくんだと。それで目標を達成したら、さらに超えていくんだ、というものになっている。
だけど自分の人生って、生老病死という言葉もありますが、生まれたら必ず老いて病んで死んでいくので、右肩上がりに成長し続けるということはあり得ないわけですよね。人生にはシーズンがある。なんだけれども、会社ではなにか、そこと上手に紐づいていないというか、前提がいびつであるような感じがしています。
人生において、ゴールは死と決まっていて、必ず死ぬ人生を生きているんだけれども、会社にいる間はそれをいったん括弧に入れて、わきに置いて、成長していくっていうことだけでやろうとしている。それで、リタイアとか、歳をとっていくということにどんな声かけをしたらいいのかという言葉を全然持ち合わせていない。
藤井 働いている皆さんがそういう言葉を持っていない?
松本 皆さんもそうだし、会社や、人事の方とかですね。
死の感覚がもたらす生の輝き
松本 でも、みんなが通る道なので。よく知られたエピソードを例に出すなら、スティーブ・ジョブスが毎朝、鏡に向かって今日が最後の日だったらどうするんだろう?と問いかけをしていたみたいに、必ず死んでいく存在なんだってことを日々リマインドする。そういう儀式を取り入れて、そういう人生を生きているんだっていうある種の現実を踏まえて生きていくことで、日々が輝いていく。
山ほど選択肢があるかもしれないけど、その中から今日はこの会社に行くって、本当は選択をしているわけで。であるならば、そのかけがえのない人生の大事な一日を、この会社で縁あって過ごしていることの意味を、とらえなおしてみようじゃありませんか、という働きかけをしているのかなと思います。
藤井 長い時間軸といっても、結局自分はその一部でしかなくて、その中のたった一日という視点で、より良く、より楽しく、この会社で過ごすのかっていう考え方なのかな。
松本 自分の存在は小さい点なんだけれど、かけがえのない点でもある。本当に小さいけれど、やっぱりその動き次第で世界は全然違った展開をしていくわけですから。そんな風に、自分をマクロ・ミクロを交えてとらえなおしていくことの効果があるのかなと思います。
死の感覚をある程度の強度で持っておくこと自体がもたらす、日々の生の輝きがあるんじゃないかとは思うんですね。ただ、僧侶としてお葬式などでそういう場面に立ち会うことは普通の人よりは多いんですけれど、それでも本当に明日は我が身ととらえるのは難しかったりもするので。言うほど簡単なことではないと思いつつですね。
行ったり来たりのダイナミズム
藤井 普通の人からすると、僧侶である松本さんは私たちより迷いが少ないに違いないとか、より良く生きてらっしゃるんじゃないか、と思うんですけれど。そんなことないですよね?
松本 そうですね、全然そんなことはないと思います。迷うことも、後悔することも、未来を憂うこともたくさんありますし。だけれども、多少なりとも仏教に親しんできたことによって、一歩引いてとらえられるというか。
寝ている時に見る夢でも、本気で怖い悪夢と、どこかで「いやこれ夢だな」って気づく時の悪夢って怖さが違いますよね。そういう意味で、悩みがなくなるとかは全然ないんですけれど、それもまあ私の現実という夢のひとつなんだな、と思う視点も横に持てるようになったかもしれません。
藤井 仏様にまつわるみんなが考えてきたノウハウが蓄積されていて、それを学んだり体感したりすることによって、自分も身につけたということですね。
松本 これも現実の話ですけど、感覚的なこう、瞬間瞬間を感じていることと、今もこうしているように、現実を言葉によって固定化しようとする営みを一生懸命やっていますよね。仏教の場合はその両方を上手にやる色んな先輩たちがいて、導いてくれる体系があるので。多分、どっちかだけだと変なところにはまってしまったりするので。感性で瞬間的に今ここ的なものをとらえるのと、理性で解釈するとらえ方と、行ったり来たりして、現実をいくつかのやり方で噛み砕く時に、すごく参考になる参照軸を提供してくれているんだと思います。
藤井 行ったり来たりがすごく大事だと思うんですよね。そのダイナミズムをどう生み出してくかっていうところに、仏教の知恵がすごく込められている。
マインドフルネスから「みんなのマインドフルネス」へ
藤井 マインドフルネスっていう言葉はなんかすごく使い勝手がいいんだけど、結局うまく使えないんですよ、僕。
松本 マインドフルネスといえば、一人で座禅瞑想して、私の能力を高めるという場面で使われることが結構多かったかなと思います。でも、もっと「私たちのマインドフルネス」という段階にシフトしていくタイミングがきているような気がします。
藤井 なるほど。集合的なマインドフルネスって、どういうことなんでしょう。
松本 ブッダ自身が修行は一人ではなく仲間とするものだよ、と言っているんですね。それが何より大事なんだと。仏教の基本的なフレームワークに戒定慧(かいじょうえ)というのがあって。木に例えると、戒が根っこで、定が幹で、慧(智慧)が果実であると。多くの人がいうマインドフルネスはメディテーション、プラクティスなので、それは定、幹であると。
根っこは何かっていうと、戒律の戒なんですけど、もっと身近な言葉でいうと生活習慣なんですね。ライフスタイルや、日々どんな暮らしをしていくかと言ってもいい。じゃあ、生活って何かというと、一人でしているものではなくて、みんなでしているものですよね。どういう人たちと、どんな生き方をしていくかということが関わってくるわけで。もともと仏教にそういう発想があって、メディテーションだけ先に取り出しちゃった、というのが私の見方ですけどね。
藤井 うん、なんかメディテーションだけで到達する何かっていうのが、僕も感じている違和感なんですよね。本質的なマインドフルネスは別にあって、それはみんなのマインドフルネスなんだっていう考え方には、僕は希望を感じます。
松本さんにとっての「#現実とは」
藤井 最後に、松本さんにとって現実とは何か?を一言でお答え頂こうと思います。
松本 私にとって現実とは、生まれてしまった限りにおいて、必ず死んでいかなければいけない人生を私は生きているんだということですね。
藤井 生きて死ぬっていうことが大きなテーマなんですね。
松本 そうですね。色々考えたんですけれど、仏教の認識論的なところや教理的なところにいくよりも、日本において身近にある仏教ってやっぱり先祖供養仏教なので。やっぱりそこの部分を出そうと思いました。
(テキスト:ヨシムラマリ)