デジタルハリウッド大学と現実科学ラボがお届けする「現実科学 レクチャーシリーズ」。
「現実を科学し、ゆたかにする」をテーマに、デジタルハリウッド大学大学院 藤井直敬卓越教授がホストになって各界有識者をお招きし、お話を伺うレクチャー+ディスカッションのトークイベントです。
X(旧Twitter)のハッシュタグは「#現実とは」です。ぜひ、みなさんにとっての「現実」もシェアしてください。
概要
- 開催日時:2024年9月27日(金)19:30~21:00
- 参加費用:無料
- 参加方法: Peatixページより、参加登録ください。お申込み後、Zoomの視聴用リンクをお送りいたします。
視聴専用のセミナーになりますので、お客様のカメラとマイクはオフのまま、お気軽にご参加いただけます。
ご注意事項
- 当日の内容によって、最大30分延長する可能性がございます。(ご都合の良い時間に入退出いただけます。)
- 内容は予期なく変更となる可能性がございます。
- ウェビナーの内容は録画させていただきます。
プログラム(90分)
- はじめに
- 現実科学とは:藤井直敬
- ゲストトーク:稲田俊輔氏
- 対談:稲田俊輔氏 × 藤井直敬
- Q&A
登壇者
稲田 俊輔
料理人・文筆家。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て(株)円相フードサービスの設立に参加。様々な業態のメニュー開発及びプロデュースに携わり、2011年創業の南インド料理専門店エリックサウスでは現在も料理長を務める。食に関する書籍も多数出版。近著は『お客さん物語』(新潮社)、『異国の味』(集英社)。
藤井 直敬
株式会社ハコスコ 取締役 CTO
医学博士/XRコンソーシアム代表理事
ブレインテックコンソーシアム代表理事
東北大学医学部特任教授
デジタルハリウッド大学 大学院卓越教授
MIT研究員、理化学研究所脳科学総合研究センター チームリーダーを経て、2014年株式会社ハコスコ創業。主要研究テーマは、現実科学、適応知性、社会的脳機能の解明。
共催
※本稿では、当日のトークの一部を再構成してお届けします。
「食」から現実を見る
藤井 今日は、稲田俊輔さんに来ていただきました。僕は稲田さんがやっていらっしゃるような食事を通じたコミュニケーションやインタラクションは本当に素晴らしいと思っていて。その稲田さんから見た現実について語っていただけるのを、すごく楽しみにしています。
稲田 よろしくお願いします。僕は基本的には料理人なんですが、それ以外にも本を書かせていただくなど、食に関することを色々やっています。その中でも、「エリックサウス」という南インド料理専門店をご存知の方は結構いらっしゃるのではないかと思いまして、そのお店についてのお話から入ってみたいと思います。そこからですね、お店という範囲を超えて、自分が現時点で最終的に至った「周縁の民」という理論について少しお話をさせていただければと思っております。
愛されるお店からリスペクトされるお店へ
稲田 「エリックサウスの生存戦略」というタイトルですけれども、今日はビジネスの話をするつもりはありません。要するに、エリックサウスみたいな妙な店がなぜ潰れなかったのか?と自分なりに振り返ったことをお話します。
エリックサウス以前に、川崎に「エリックカレー」という持ち帰りのみの小さなお店をやっていました。今も続いていますが、これはカレー専門店で、ランチタイムを中心に細々とやっていて成功したんですね。それで調子に乗って2号店を新橋に出したら、あっさりと潰れてしまった。それによって、1号店はたまたま場所が良かった、偶然の成功だったと、ある意味学んだということがありました。
エリックカレーは、お客様から愛されるお店、かわいがっていただけるお店であったことは確かだと思います。でもそうすると、良くも悪くもなんですが、お客様至上主義になってしまう。また自分として窮屈だったのは、お客様が求めていなくても自分がやりたいことは色々あるのに、それがあまりできないということです。
じゃあどうすればいいのかと考えて、「愛される店」ではなく「リスペクトされる店」でなければ自分のやりたいことはできないと気づきました。リスペクトされる店というのは、カレーというジャンルでいうならば、インドの本場のカレーをあえて本場の味のままに出している店。もっと言えば、自分が特に夢中になったのはカレーですらなく、南インド料理全般。そういうものをちゃんと出してくれる店です。
当時、都内にもまだ数軒しかなかったんですけれど、そういう店を自分はリスペクトしていたから、自分がそういう店をやればリスペクトされる店ができるに違いない、と思ったんですね。
不幸な出会いを起こさないための交通整理
稲田 それで、八重洲地下街にエリックサウスをオープンしました。一応、施設からは「カレー専門店をやってください」と求められていたので、表向きはそう見えたと思います。インド料理を何も知らない一般の方からは「ここカレー屋さんかな?」という風に見える。でも、インド料理が好きな、自分みたいなマニアからは「えっ?こんな場所に南インド料理専門店があるの?」という風に見える。そういう二面性が最初からありました。
自分がやりたかったのは、多くの一般の方と、マニアの方、そのどちらにも偏ることなく、両方のお客さんが店の中で自然に共存しているような状況を作ることでした。そのために、オープン当初から重要だったのが「交通整理」です。
どういうことかというと、普通に美味しいカレーを求めてこられた方がメニューをパッと見て、うっかりマニア向けの専門的な南インド料理を頼んでしまったら「何だこれは」ということになるし。その逆で、専門的な料理を求めて来た方が、初めての方でも満足できるようなものを頼んでしまうと「専門店なのに全然本格的じゃないじゃないか」と思われてしまう。
この求めてこられたものとこちらが用意しているものがすれ違うことを自分は「不幸な出会い」と呼んでいるんですが、これは世の中の飲食店で非常に頻繁に起こっています。ましてや、エリックサウスは幅広い客層が共存する状況を作りたいという無茶なことを思っていたので、余計に不幸な出会いが起こらないための交通整理が重要でした。
メニューの構造で二面性を成立させる
稲田 このメニューを見ていただくとお分かりかと思うんですが、初めての方はほとんどこの左側の「ランチカレープラッター」、カレーが3種類もしくは4種類選べますよという、ここを選ばれると思います。かたや、本格的な南インド料理を求めている方ほど、右下にいくつか並んでいるやたら細かい文字の多い、こっちを頼まれるはずなんですね。
こうしておけば、お互いに自分たちが求めているものがどこにあるのか分かりやすい。そうなるようにデザインしています。飲食店のメニューって、普通の方は写真があったらそこにパッと目がいって、細かい文字や説明みたいなところは案外読まないんですよ。でも、食に対してマニアックだったり貪欲だったり、ある種の知的好奇心が強い方ほど細かいところまで読みにいって、なおかつそこに惹かれる、みたいなことがあります。
そして、これは高円寺にある「カレー&ビリヤニセンター」というビリヤニ専門店を目指して作ったお店のメニューです。これもほぼ同じ構造で、もっと極端になっています。よく読んでいくと7種類のビリヤニプレートのメニューが載っていますが、初めて見た方はほとんど左側のどれかを選ばれると思います。
でも、ガチのビリヤニ好きやインド料理マニアの方は多分こちらは選ばない。むしろ右側の方を選ぶんですね。真ん中に4種類ビリヤニが並んでいますけど、写真すら入れていない。これは入らないわけではなく、あえて入れずに、ぼやかすようにシンプルなイラストを入れています。つまり初めて来た方がちょっと怖くて頼めないような雰囲気を出している。これも、交通整理のひとつということになります。
世の中の食べ物はピラミッドなのか?
稲田 エリックサウスの話はひと通り終わりですが、この話の延長として、いろいろと考えて考えて、数年越しで至った「周縁の民」理論というものがあります。なんとなく皆さん、世の中ってこう三角形のピラミッドになっていてですね、上に行くほど美味しい、下に行くほど美味しくない、みたいな構造をイメージされるかもしれないんですが、実はそんなことないですよ、というのがこの周縁の民理論です。
世の中の食べ物、特に外食が分かりやすいんですが、僕は最適解というものがあると思っています。「美味しいもの」ではなくて「最適解なもの」ということです。最適解とは何かというと、多くの人が好み、嫌う人が少なく、しかも提供者にとって都合がいい食べ物、ということなんですね。
この丸いどら焼きをひとつの世界、都市みたいなものだとすると、真ん中に行くほど人口密度が高い。ここが最適解で、真ん中から遠ざかるほど、好きな人が減っていったり、嫌いな人が増えていったり、こんなものを作っても何のメリットもないよ、みたいなものが増えていく。だから、基本的に世の中というものは、この最適解の中心部分を目指している。そこに向かってビジネスがなされるんですね。
たどりついた「周縁の民」理論
稲田 でも、それに対して反逆する人たちがいて、そういうレジスタンスはこの周辺部分に住んでいる。自分はこれを周縁の民、と呼んでいます。例えば、ハンバーグを例にあげましょうか。最適解的なハンバーグはどのようなものかというと、最近「飲めるハンバーグ」なんて言い方もしますけれども、肉汁たっぷりで、ボリューム感があって、ジューシーで香ばしくて、みたいなもの。今はそれが良しとされていて、世界の真ん中にある。
でも、実はそれとは全然違うハンバーグもあるわけですよね。例えば、僕が好きなのは肉汁が出なくて、みっしりしていて、肉そのものを単に焼いただけのようなハンバーグなんだけれども。それは、どうしても真ん中には来られない。だから周縁の食べ物になるというわけなんですね。
面白いことに、周縁の食べ物には周縁のファンがいてですね。大都市の中心部の肉汁ハンバーグに人が集まったとしても、周縁にある肉汁ゼロのみしみしガチガチハンバーグに群がっている少数派もいて、それを「周縁の都」と呼んでいたりするんですけれども、そういう構造になっている。
で、周縁の民って意外と同じ傾向を持つことがあるんですね。みっしりしたハンバーグ好きは、お酢と塩と油だけで作るような、甘みもコクも全くないサラダドレッシングが好きだったりして、そこで小さく一致団結していたりするという。そういう風に世界が成り立っているんじゃないかと思っています。
ピラミッドの頂点は周縁のひとつに過ぎない
稲田 上に正しくて美味しい食べ物があり、下には低級でまがいものでダメな食べ物がある、みたいなピラミッド的な世界観が端的に現れているのは、昭和から平成にかけてのグルメ漫画ではないかと思います。
名前をあげて恐縮ですが、『美味しんぼ』を例にとってみましょうか。海原雄山とか山岡士郎とか、彼らは実は周縁の民なんです。周縁なんだけど、彼らは自分たちを頂点だと自認していて、自分たちはエリートだから無知蒙昧な大衆を啓蒙せねばならぬ、それによって資本主義的な悪である大きな食品メーカーやレストランチェーンに鉄槌を下さねばならぬ、的な世界。たぶん、当時はそれで良かったと思うんだけれども、時代が進んでいくにつれて、なんとなくそれで説明できないことや、この世界観がもたらすデメリットみたいなものがどんどん増えていった。
そこで自分は、後出しジャンケンなんですけれども、いや違うと。海原さんも山岡さんも頂点ではなくて、ぐるっと回せば周縁のひとつに過ぎないんだと。多様な頂点、多様な周縁者の在り方がある中のひとつに過ぎないものを、優れて正しいものと認知してしまうと、そこに歪みが生じるんじゃないか、みたいなことを思っています。
これが周縁の民理論というもので、これが出てきたのもエリックサウスを苦労しながら何とか潰れないようにずっとやってきた中でたどり着いた考えなのかな、というところで、今回のお話はいったん終わりとさせていただきます。
みんな、食べ物に対してもっと自由でいい
藤井 ありがとうございます。今、周縁の民っておっしゃっていましたけれど、なんか海原雄山が上にいて至高とか何とか言っていたのが、実は周縁なだけで、ぐるっと回ったらいろいろあって、それはそれで最高じゃん、っていう。
稲田 そうなんです。だから、自分が一番住み心地の良い場所を見つければいい話で。たぶん、海原雄山も山岡士郎もそこに住むことが快適だったんだと思うんですよ。自分も周縁の民で彼らと近いといえば近いところに住んでいるけど、絶対に同じではない。ちょっとズレているし、もっとズレている人もいる。
例えば、ラーメン二郎ってありますよね?あれも実はかなり周縁なんですけれど、美味しんぼ的な周縁というか、彼らが頂点と認識していた周縁とは全然逆側の周縁だったりするわけで。どこが正解じゃなくて、自分が住みやすい場所に住めばいい。
ただし、本当のことを言ったら、やっぱり最適解の真ん中に住んでいるのが、なんというか一番苦労がないというか。ストレスがないし、選択の幅も広いみたいなことはあるかもしれないんだけれども。だからといって、大都市のど真ん中を目指さなくてはいけない理由もないという。もうちょっと、みんな食べ物に対して自由でいいんだみたいなことはよく思います。
こっちの端とあっちの端の道しるべ
藤井 両方行けるのが一番良いんだと思うけど。稲田さんがセブン-イレブンでビリヤニを監修しているじゃないですか。あれは、ご自身で作るわけではないですよね?
稲田 そのあたりは非常に複雑なんですが、ざっくり言うと最終的にレシピを決定して作るのは自分ではなくてですね。例えば、ビリヤニひとつとっても様々なレシピのパターンが考えられるわけです。あえてものすごく単純化すると、誰にでも食べやすいものから本格的でマニアにウケるものまで、無限のパターンがあるんですね。
自分がやるのは、こっちに行くためにこうすればいい、あっちに行くためにはこうすればいいという、いろんなファクターをですね、こっちの端とあっちの端でパターンを提示することです。この2パターンの間のどこが落とし所なのかを決めるのは自分ではないという。
藤井 なるほど、なるほど。
稲田 彼らはさすがにそこの落とし所を決めるプロっていうんですかね。そういう印象をうけています。
藤井 エリックサウスだから、やっぱり攻めてる感もちょっと残しておかないといけなしいし、その手加減がすごく上手くできているなと思います。
稲田 自分はちょっとこれだけは流石に勘弁してくれ、コクが強すぎるからもう少しナチュラルにしてくれ、みたいな細かい要望は出すんだけれども、全体的な落とし所でどこを狙うかは彼らが決めるし。それも回を重ねるごとにちょっとずつ変わっていったりとか。
藤井 味、変わってますよね?
稲田 はい。最初は無難なところからはじまり、お客様が慣れるごとに徐々にマニア的な方に近づいていく、みたいな感じはあります。でも、ちょっとやり過ぎたなと思ったら半歩戻ったりして。前回が多分、一番マニア寄りだった。カレーが1種類だったんですね。で、ビリヤニをよく知っている人たちは「これで正解だ、ビリヤニらしい」と思ったけれども、世の中の大半の人は「2つ入ってたカレーが1つになってしょぼくなった」と。そうなると2種類に戻さざるを得ないとか。でもその中でも理想に近づけるために、いろんな細かいことをするみたいな、そういう駆け引きの繰り返しみたいなところがありますね。
家庭料理における「再現性」の大切さ
藤井 僕はもともと研究者なんだけど、僕が好きなのは研究じゃなくて実験なのかもしれないって最近気がついて。思いついたことを端からやっていく楽しさっていうのか、だから家で料理を作ると毎回何か変えちゃうので、同じものができないって家内に言われるんですよ。でも家内は毎回同じものが作れるからすごいなと思って。稲田さんは両方ですか?
稲田 自分は研究ともしかしたら似ているかもしれないんですが、実験を行った場合、つまり今までとやり方を変えた場合は、全て数値やデータとしてログを残しておくみたいなところがありますね。それを様々な料理に関してやっていて、それがレシピ本を作るというような仕事でも割と重要な部分になっています。
最新バージョンに近いものから、家庭での再現性が高いものをピックアップしてそれを本に収録するという。自分は再現性というものが料理、特に家庭料理において非常に大事だと思っているので、再現性を高めるためにありとあらゆることをします。
例えば、分量を全部グラムで書くとか。いわゆる大さじ小さじとか、玉ねぎ1個みたいなブレのある数値を使わないことを徹底していて。なおかつ、仕上がりの時の重量も明記する。カレーなんかは、仕上がりの重量が違う、つまり水分量が違うだけでさらさらからドロドロまで、とろみの加減が簡単に変わってしまうんですね。テクスチャーが違うと味も全く違うものになってしまうので。
どっちも美味しいんですけど、一度自分が理想としているさらさら加減を再現した上で、あなたはどのくらいの加減が好きですか?という風にそこからアレンジしていってほしいという。一度は自分が想定している仕上がりにたどり着いてもらうために、様々なことを数値化したり定義したりということは意識的にやっていますね。
藤井 再現性の精度を上げるためには、食材、調味料、すべての精度を上げるしかないということですね。
稲田 そうです、そういうことです。
どこまで引き算ができるか?という実験
藤井 今のは研究ですよね。日々の実験みたいなのはないんですか?これとこれを混ぜてみたら美味しかった、みたいな。
稲田 実験もやりますよ。でも僕の実験は、足す実験じゃなくて引く実験を続けてきた気がします。この料理にはこれとこれを入れないといけないんだ、という思い込みを一旦リセットして、どれを引いていいのか、どれは引いちゃいけないのかというところを模索する。
例えば、麻婆豆腐ならどこまで引けるんだと。どこまで麻婆豆腐であり続けるのかという引き算をひたすら繰り返した結果、豆腐は茹でないでいいし、味付けは塩か醤油だけでいいし、スープもいらないし、片栗粉もいらない。でもちゃんと美味しい麻婆豆腐として成立している。それをミニマル麻婆豆腐と名づけてですね、そういうギリギリまで引き算をすることによって新しい美味しさが出てくるというか、それまで隠れていた麻婆豆腐の本質のようなものが現れてくる、みたいなことがあるんです。
本格的なお店っぽい麻婆豆腐とどっちが上か下かではなくて、これも最適解と周縁みたいな話で。そこを自由に行ったり来たりする、今日はどっちのパターンにしようと迷えるみたいなことが豊かさだし、両極端の中間地点でその人にとって一番パフォーマンスの良いバージョンが見つかるかもしれないし、という風に思っています。
藤井 それがその人にとっての最適解ですよね。両端を極めるから、どの辺が自分の落とし所か分かる。
稲田 そうです、そうです。落とし所はきっと人それぞれ違うはずなので、自分にとっての落とし所を見つけてもらったらいいし。そのためのパターンみたいなものを提示することができれば、それは自分にとっての成功なんだと思っています。
マニアックとマニアック過ぎないことのバランス
藤井 なんかこう、全部バランスがいいなと思っていて。やっぱり、何か極めようと周縁の端っこに行けば行くほどバランス悪くなっていきますよね。そのギリギリのところに稲田さんは立っていらっしゃると思うので。だから、マニアにもっともっと、というところには行かないんですよね。
稲田 少なくとも、そこをメインにしないというのはあると思います。だから、1割マニアックなことをやるんだったら、9割そんなにマニアック過ぎないことをやってバランスを取れば、その1のマニアックなことをやっていいという許可を自分に出すみたいな。
藤井 さっき見せていただいたメニューの、右側にマニアックなビリヤニを混ぜ込んであるっていうのはそういうことなんですね。
稲田 そうです。そこに偏らないようにしつつも、そこから消さないという。メインでちゃんと社会貢献できていれば、サブの部分では好き勝手やってもいいんじゃないかな、それが多分、店の魅力にもなるんじゃないのかなと自分は思います。
制約があった方がゲームとして面白い
藤井 受講されている方からの感想で、「ビジネスで勝ち抜くには差別化と言われます。でも、差別化が過ぎると数が売れなくなるリスクがつきまとう。ど真ん中との距離の取り方は難しいです」と。まあ、そうですよね。
稲田 おっしゃる通りで、ただマーケティング的なことと、周縁と最適解どっちが気持ちいいんだろうというのは似ているようで少し違う、ある種の擬似相関だなという気がしますね。
藤井 僕はやっぱり稲田さんを見ていて面白いなと思うのは、その実験、研究をしながら、その中でビジネスのバランスを考えるっていうところが素晴らしいなと。
稲田 でも不謹慎な言い方かもしれないですけど、経営として、商売として成り立たせなきゃいけないっていう、そういうルールがあった方がゲームとして面白くないですか?
藤井 そうなんですよ。だから、許容できる無駄とそうじゃない無駄があるじゃないですか。こっちで9儲かってるから、1ぐらいロスしてもいいだろうみたいな。そこが最先端の面白いところなんだからやらせてよ、っていう。研究者の場合は、そこがないので全部ひとつに突っ込んでいるというか。
稲田 それが幸せな方もいると思いますし。ただ、自分がそれをやったらつまらなく感じてしまうかもしれません。今、様々な制約の中でバランスをとること自体を楽しみながらやる、というのが自分には一番向いているんだろうなと思います。
藤井 社会といい感じにつながっているという楽しみは明らかにありますよね。
稲田 あると思います。だから、そういうバランスをとるから、自分は社会の中で役割を与えられているし、っていう。
稲田さんにとっての「#現実とは」
藤井 最後に、稲田さんにとっての現実とは何かをひと言でお願いします。
稲田 はい。自分の意識の外側にある、様々な異なる価値観や感覚の集合体を自分は現実としてとらえています。自分の意識と現実の境目みたいなものがあるわけで、その境目がアイデンティティというものなのかなと。つまり、アイデンティティとは他者との相違の総和であって、その外側にあるものが現実という認識です。
藤井 外側というのはあるんですか?稲田さんにとって。
稲田 僕は多分、物質的な現実も仮想現実的なものも全部ひっくるめて言っている気がしますね。それがあるから、今後それこそAIなんかが現実の一部に入り込んできても別に怖くないというか、自分は何も変わらないんだろうなと思っています。
藤井 それは、現実っていうこの世界の仕組みを自分なりにきちんと定義できているから。それが分からなかったら、何がどうくるか分からないから不安しかないんですよね。
稲田 それでいうと、僕は現実は自分に理解できないものだって開き直っていると思います。だから、美味しいものを教えてくださいって言われても、あなたが何を美味しいかなんて知りませんよ、なぜなら僕はあなたと違う人だからねっていう、絶対に理解できない壁がある前提で、でも僕なりにこんな風に予測します、というゲームを楽しむ、みたいな。
藤井 たしかに、そうですね。ありがとうございました。
(テキスト:ヨシムラマリ)
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