デジタルハリウッド大学と現実科学ラボがお届けする「現実科学 レクチャーシリーズ」。
「現実を科学し、ゆたかにする」をテーマに、デジタルハリウッド大学大学院 藤井直敬卓越教授がホストになって各界有識者をお招きし、お話を伺うレクチャー+ディスカッションのトークイベントです。
X(旧Twitter)のハッシュタグは「#現実とは」です。ぜひ、みなさんにとっての「現実」もシェアしてください。
概要
- 開催日時:2024年8月27日(火)19:30~21:00
- 参加費用:無料
- 参加方法: Peatixページより、参加登録ください。お申込み後、Zoomの視聴用リンクをお送りいたします。
視聴専用のセミナーになりますので、お客様のカメラとマイクはオフのまま、お気軽にご参加いただけます。
ご注意事項
- 当日の内容によって、最大30分延長する可能性がございます。(ご都合の良い時間に入退出いただけます。)
- 内容は予期なく変更となる可能性がございます。
- ウェビナーの内容は録画させていただきます。
プログラム(90分)
- はじめに
- 現実科学とは:藤井直敬
- ゲストトーク:七沢智樹氏
- 対談:七沢智樹氏 × 藤井直敬
- Q&A
登壇者
七沢智樹
Technel合同会社代表・東京大学情報学環客員研究員・SPT2023(国際技術哲学会2023)運営委員。企業での技術開発の経験をいかし技術哲学を研究している。日本の技術哲学者が集う「技哲研」や、亜熱帯原生ジャングルで厳選されたツールとともにサバイバル的滞在を実践する「Iriomote JUNGLE CLUB」を運営。共訳書に『技術哲学講義』(マーク・クーケルバーク)。WIREDにて『技術哲学入門』連載中。
藤井 直敬
株式会社ハコスコ 取締役 CTO
医学博士/XRコンソーシアム代表理事
ブレインテックコンソーシアム代表理事
東北大学医学部特任教授
デジタルハリウッド大学 大学院卓越教授
MIT研究員、理化学研究所脳科学総合研究センター チームリーダーを経て、2014年株式会社ハコスコ創業。主要研究テーマは、現実科学、適応知性、社会的脳機能の解明。
共催
※本稿では、当日のトークの一部を再構成してお届けします。
テクノロジーが現実を操作する時代だからこそ
藤井 今日は七沢智樹さんをお迎えし、ここ数年の技術哲学の蓄積について教えていただこうと思います。テクノロジーが私たちの現実をどんどん操作していくという世の中になってきていますので、技術哲学というのは非常に重要な考え方です。よろしくお願いします。
七沢 よろしくお願いいたします。私のプロフィールを紹介しますと、Technel合同会社の代表、東京大学情報学客員研究員、技哲研、意識研の運営などいろいろさせていただいております。あと、西表島のジャングルでサバイバル的滞在をする「Iriomote JUNGLE CLUB」を主宰したり、本では『技術哲学講義』の共訳をしたり、WIREDでは『技術哲学入門』という連載もしております。国際技術哲学会2023の運営委員も務めさせていただきました。
目下のところは、ひたすら本を書いておりまして。来年、翔泳社さんから出る予定ですが、その本の内容から今日は色々とお話しします。私たちはテクノロジーなしには生きられない“生”を生きていて、現実もテクノロジーが形作っていると技術哲学は言っています。そこにどういう問題があって、僕らはどうしたらいいのか、ということを技術哲学の知恵を元に考えていきたいと思っています。
「技術哲学」とは?
七沢 まず「技術哲学とは何か」なんですけれども。テクノロジーとは何か、という問いから出発してテクノロジーを哲学的に論じることで、テクノロジーにまつわる社会問題を考察し、人と社会とテクノロジーのより良い関係性を実現するための哲学の一分野です。技術設計や倫理、法規制などへの応用も視野に入れて研究されています。
マーク・クーケルバーグという現代を代表する技術哲学者の一人が書いた、先ほどの『技術哲学講義』という本では、「テクノロジーはただの道具ではない、テクノロジーが人間を形作るんだ」と繰り返し言うわけですね。藤井先生がおっしゃった、人工現実が我々の現実に差し込まれてきて見分けがつかないということも含んだ意味で使われている。
私たちの行為・行動をテクノロジーが誘導したり、私たちの現実の見え方そのものに影響を与えたりすると。一方で、これが重要なんですけれども、テクノロジーが現実を全て決定するわけではない。人間が関与する余地もある、ということを技術哲学者は言っています。
人間は生まれながらにサイボーグである
七沢 一般常識としては、テクノロジーはただの道具で、人間が全部コントロールできるんだ、という考え方が多いんですよ。AIだって人間の言うことを聞かせればいいんだ、と。だけど、歴史的にみると全然そんなことはなくて。技術と人間は不可分な状態でずっと共進化してきました。
アンディ・クラークが「ナチュラル・ボーン・サイボーグ」という言い方をよくするんですけれども、人は生まれながらにサイボーグなんだと。このテクノロジーと人間の一体性みたいなものは、テクノロジー以前、技術とか道具とか身体機能とか、そういう時からずっとあった話なんですね。
生命は進化の過程で、いろんな身体機能を獲得しているわけですけれども、その身体機能を外化したものが道具です。トカゲがピュッと舌をのばして獲物をとるのと、海に入ってモリで魚を獲るのは、言うなれば同じ機能ですよね。でも人間の場合は外化しているので、鉄砲を使ったり、弓を使ったりもする。
我々はそういった狩猟の道具を使うことではじめて生きながらえることができるので、道具と人間は当然不可分で、技術とも不可分です。そういうふうに、道具が我々を変容させていった。『火の賜物』という本もそうですね。火を発明したことで消化にかかるエネルギーが脳に使えるようになって、脳が発達したとかですね。
かつ、海を前にモリを持てば魚を突きたいという衝動が駆け巡るし、スマホもつい見ちゃうし、道具は常に人間の行為をアフォードし続けてきました。テクノロジーは、テクノロジーになる以前の道具の段階からそういう性質を持っていたんですね。
テクノロジーが引き起こす問題
七沢 じゃあ、火が発明されて私たちが変わったのと、ブレインマシンインターフェイスを頭に入れて私たちの現実の見え方が変わるっていうことは、同じかというと、なんか違うわけですよね。ちょっと次元が違うかもしれない。道具の発明ってゆるやかなんですけれど、テクノロジーはどんどん発明されますし、急激な変化を引き起こす。それだけでなく、どうも今までの技術と違って負の側面が大きいんじゃないのかと言われているわけなんですね。
『技術哲学講義』にも出てきますが、私たちは無償労働をしていると。FacebookやGoogleをタダで使っているつもりでいるけど、実は私たちが労働を捧げて、行動データなどを提供して、彼らはそれを使って莫大な利益を上げていると。そうした搾取構造がテクノロジーによって簡単に作られる。私たちを取り囲むように、抵抗不可能なほど強大なシステムになっていく。それによって、我々はますます衰退して家畜化していく。
もはや私たちは、ひとつのものの見え方、生産性や効率性からしか世界を見られなくなっている。いろんな豊かさみたいなものを無視して、いかに情報量をたたみ込めるかだけに価値を感じる、みたいなこと、これをハイデガーは「ゲシュテル」と呼んだわけですけども、それが起きてると。
あとは破壊ですね。イスラエルがAIをガンガン使ってパレスチナを攻撃していますが、判定が間違っていたりするのにも関わらず「AIがOKと言っているから撃っている」と正当化する、みたいな問題がある。テクノロジー批判は二つの大戦の時に大きく出てきたんですが、戦死者数がそれまでの比じゃないレベルに増えた理由もテクノロジーなわけです。原爆が象徴的ですよね。
現実はすでにテクノロジーによって形成されている
七沢 さらに、世界中に広がったこのテクノロジーはもはやハイパーオブジェクトと化していて、一人の人間が全てを認識することは不可能になっている。生成AIなんて、全人類的な行為によって生み出された情報を学習して生まれているとしたなら、一体その生成AIは何者なのか。とても誰かがコントロールできるようなものでもない。社会問題の原因がテクノロジーだけにあるわけではありませんが、テクノロジーがいつでも人間や社会を形成する側面を持つので、どの問題にもテクノロジーが関わっている。こういう形ですね。
インターネットでも、90年代までは自由と平等を実現した本当の民主主義社会を実現するというユートピア論がありました。でも今、監視資本主義や分断の問題がどんどん起きている。夢が破れた理由は、使っているテクノロジーそれ自体が持つ問題を見ていなかったからだと思うんですね。AIや人工現実などが出てきても、テクノロジーの問題がある限りは行き詰まりが起きてくると思います。
機械生命の先にあるもの
七沢 テクノロジーは、そもそも西洋近代以後のとくに啓蒙時代の進歩史観的な世界観の中で生まれたものです。これの純度が高まっていくと、トランスヒューマニズムやシンギュラリティになる。よく言われるように『マトリックス』みたいなディストピアの可能性も孕むと。
デイヴィッド・チャーマーズという哲学者が、『リアリティ+(プラス)』という本で「世界はシミュレーションであることを否定できないし、もう俺は経験機械でいい」って言ってるのは象徴的だと思うんですよね。リアルとVRは実質的には区別がつかないからもう、そういう方向にむかっているんだと。
今のテクノロジーの先に想定されるものとしては、機械生命への進化ということも言われています。有機的な存在から、カーボン生命、シリコン生命になるんだと。ロシア宇宙主義を一つの起源とするわけですが、こういう考えって多いですよね。人間が色んな機械を作って、色んなものを機械に変えていくわけですけれども、最終的にはウロボロスの蛇のように自分自身を食っていく。しかし、それは本当に可能なのか?本当にそれで良いのか?というところをいま問わないといけないんじゃないか、それを問いたい、というのも技術哲学のひとつの目的です。
あなたは未来が良くなると思いますか?
七沢 ここでちょっと皆さんに質問を投げかけたいんですが、「あなたはテクノロジーによって未来が良くなると思いますか?悪くなると思いますか?」。僕がだいぶテクノロジーの負の側面を語ったのであれなんですけど、まっさらな状態で聞くと大体8〜9割ぐらいが「良くなる」と答えてくれるんです。もうひとつ問いがありまして、「その変化はテクノロジー自体が引き起こすのか、それとも人間次第だと思いますか?」と。そうすると、これも「人間次第だ」というふうに、大体8割くらいの人は言うんですね。
この2つの一番多いパターンを合わせると、人間はテクノロジーを上手に扱うことができて、それによって未来が良くなると考える「楽観的ヒューマニスト」です。高度経済成長期とか、つくば万博とか、その後もITバブルがあり、割と2010年代まではそうでしたよね。2010年代後半からスマホの問題が出てきて、ちょっと悲観論がでてきた。あとはこう、「テクノユートピア論」「ディストピア論」「悲観的ヒューマニスト」と四象限になります。
こんな感じで分かれてきます。けれども、まあ単にテクノロジーだけが問題なわけでもないし、当然、人間が全部をコントロールできるわけではないし、相互作用するわけじゃないですか。楽観的になったり、悲観的になったりするけど、実際テクノロジーの価値っていうのは社会的に構成されてくるので、この四象限に単純におさまらない考え方があるでしょう、と。
テクノロジーそのものを複数化する
七沢 ここから先は今書いている本で詳しく説明しますが、もうちょっと深く掘っていくと、これはまだメモみたいなものなので雑ではありますが、こういう風になるのではないかと。人間がテクノロジーを決定するしテクノロジーも人間を決定するという相互作用を前提に置いた上で、ネットワーク性やサイボーグ性、テクノロジーを使用する人の主観性など、その関係性はより奥行きを持ってとらえるべきだと。
一方で、「テクノロジーそのものの概念」のとらえ直しも必要かもしれません。つまり、テクノロジーを複数化しなければ、テクノロジーの問題を乗り越えられないのではないか。それを言ったのが今話題の技術哲学者、ユク・ホイです。
テクノロジーというのは、近代西洋の合理主義の世界観、さらには西洋一神教的な宇宙観のもとに生まれてきました。けれども、テクノロジーというのは西洋近代以後の一つの技術のあり方で、他の技術のあり方も可能なはずです。技術はいつでもコスモロジーに紐づくと言えるわけです。中国には道徳的宇宙技芸があって、「道」と「技術」が一体なんだということですね。道というのは「天」と表現されるような宇宙的な秩序で、技術はその最高境地と一体でなければならない、と。
この技術のあり方は西洋形而上学的なものとは全然違う。西洋形而上学では、イデア的な万物の雛形みたいな真理とか、理想のあり方というものがあって、それが現実に投影されているといういわゆる一神教的な構造なんですけれども。そういう構造を前提にしない技術がある、と。そして、テクノロジーは西洋近代の生み出した宇宙技芸のひとつにすぎない。それは、ひとつの世界観・自然観から生まれる技術、そして、それを使う人々の現実は、ひとつの現実に集約されます。
一方で、多様な世界観・自然観からは、真に多様な技術、そして現実が生まれます。テクノロジーそれ自体を相対化することによって、それを超えられるんじゃないか、ということです。多自然主義というのが最近出てきましたが、ひとりひとり身体が違いますよね。だから、それぞれが持っている自然観、見え方は違うだろうと。そもそも同じ世界というのはないんですね。
隠された現在から未来を掘り起こす
七沢 テクノロジーの問題について、よくある論法で「でもその問題ってテクノロジーで解消できるんじゃないの?」というのがあるんです。「AIの問題は将来、AIが解消するんじゃない?」「無機的な機械でも、すごく豊かな生命性を発揮する機械生命も可能なんじゃない?」みたいなものですね。だけど、前提となっている世界観自体に致命的な欠陥があれば、その上に立ち上がる文化はいつか破綻するわけです。
なので、その前提となる世界観自体を多様にする必要があるし、もともと多様だったという話なんですよね。ユク・ホイは中国の宇宙技芸を掘り出してきた。じゃあ、いろいろ掘り出そうぜ、という話に今度はなっている。
それを掘り起こしていくとですね、「隠された現在」と書いていますが、それによって新たな未来を発見できるんじゃないか、ということを考えています。先ほどのトランスヒューマニズム的な未来がほぼ確実に来るような未来だとしたら、それに対してもっともらしく、かつ来てほしい未来を、スペキュラティブデザインでアート的に表現してみる、というのもあります。それに技術哲学の、宇宙技芸の知恵をプラスすることで、別の未来を考えてみる。
プリミティブなサイボーグ性に立ち返る
七沢 例えば、生まれながらにサイボーグだという話をしましたが、テクノロジーでどんどん拡張するタイプのいわゆるサイボーグではないサイボーグというのも可能だと思うんですね。僕はこれをプリミティブサイボーグと言っています。そのプリミティブなサイボーグ性に立ち返ることができれば、そんなに機械で拡張する必要ないんじゃないの?ということに逆に気づけるんですね。
技術をいっぺん削ぎ落としてみる。火を起こして、魚を獲って、テントがあるみたいな、プリミティブな状態になってみたら、そこからはもうテクノロジーは足し算で済むんですよ。そうすると、このプリミティブなサイボーグ性というのが身体的に理解できてきて、違う宇宙技芸に紐づいた未来の可能性が見えてくる。
その試みとしてやっているのが、冒頭の西表島のジャングルで、米以外は自給するという活動です。これ、参加者がのべ100人位いてですね。皆さん体験して都市に帰ってくると、スイッチを押したら電気がつくことに驚いてくれます。スイッチを押すとお湯が沸くとか、火が出るとかでまあ、驚いてくれる。
プリミティブなサイボーグを体験することは、ひとつのテクノロジーの複数化、さらには現実の複数化のきっかけになるということですね。これは一つの例ですが、そんな感じで、人工現実に乗っ取られる未来を回避したいと七沢は考えている、という発表でした
西洋的哲学と東洋的哲学の橋渡し
藤井 ありがとうございます。『技術哲学講義』を読んでいると、東洋思想の話が出てきて。でも「本流はこっちだよ」って西洋哲学的なアプローチでまとめちゃってるんですよね。
七沢 クーケルバーグは、実際は結構、西洋に限界を感じている人ですね。でも、単純な理解をしちゃうんですよ。日本人は神道でアニミズムだからロボットにも魂を感じる、みたいなざっくりしたことを『AIの倫理学』言っていて。限界を感じていて、その外にある宇宙技芸をつかみたいんだけどつかめない、というように見えます。
藤井 僕も理解しているかは分かりませんが、東洋的な感覚という点では共有していると思います。なぜ、西洋の方々はそこがつかめないんですかね?
七沢 僕はAI、ChatGPTもちょっと問題だと思っていまして。「ノンデュアリティ」は「非二元論」だから、一元論でもないんですよね。でもノンデュアリティとは?と聞くと一元論のことを言ってくるんです。「結局、陰と陽は統合される」とか、東洋思想については結構とんでもないことが返ってくるんですよ。
学習データの偏りなのか、何か現代のAIの前提となっているものに東洋思想をうまく組み込めない理由があるのか。東洋思想は破綻したロジック、つまり矛盾を内包する論理をも前提にするので、確かに普通のロジックじゃやっぱり理解できないので、そういうことが関連しているのかなはどうなんだろうなと思っておりまして。
藤井 僕らは分からないものを分からないまま、とりあえず抱えながら生きてるんだと思うんですけど。「複雑なものを複雑なままとりあえず飲み込んじゃえ」というのと、そうじゃなくて「複雑なものは次元を圧縮してキレイに説明可能にしないと俺たちは食えねえよ」っていうのと。
七沢 そういう思想の違いですよね。複雑なものを複雑なままっていうのが東洋思想ですから。だから本当は、こういう技術哲学をやっていて、東洋思想に興味がある人は海外に向かってやっていかないといけないということだと思うんですよね。橋渡しをしないといけない、という。
それぞれの世界観でもって現実を紡いでいく
藤井 ひとつの共通の現実から始めると、排除される人が必ず出てくるんですよ。正しさがひとつしかない、みたいなことになっちゃう。それは本当に気持ち悪くて。それぞれの自然を基点として、みんなが違う世界観を持っていたら、共通の境界・共通の外側って存在し得ないんですよ。そういう世界になってほしいと僕は思う。
七沢 同感です。今はテクノロジーに追われて、昔ながらの足踏み脱穀機は生産性が低いからダメだとか、捨てられたり無視されたりする方向になってしまっている。
現実なのか非現実なのか、夢なのか夢じゃないのかというのが分からないこの世界の中でも、それぞれがその世界観、コスモロジーを持って何かを生み出していく。現実を紡いでいく。その時のコスモロジーは多様であって良いし、生み出された技術も全然違うものであって良いはずです。
藤井 今日のお話で全てに通底しているのは、技術は人にくっついていて、一体であり不可分だってことですよね。一人一人にくっついているテクノロジーも微妙に違うんですよね、きっと。例えばスマホもね、共通のテクノロジーで動いているじゃないですか。だけど人と一体化した瞬間に、何か別のものになる。
七沢 そうです、そうです。テクノロジーは同じでも、一体化したサイボーグ身体っていうのは多様で、それぞれ違うんです。そこから出てくる自然観とか、行為のあり方も変わってくるので。
その時に、何が自分にくっついているのかすら分からなくなっているのが今なのかなと思っていまして。多くの人は気がつけばスマホを持って何か見ていたりして、ひとつのテクノロジーの上にいろんなカルチャーがあって、そのテクノロジーのことは疑えないという状態になっている。
西表島のジャングルのセッションは、いったんその関係をリセットするということですね。ほかにも、技術に詳しくなるのも良いと思いますし、メイカームーブメントとかありましたが技術をハックするとか、いろいろあると思うんですね。ともかく、その関係性にひとつひとつ丁寧に気づいていって反省していくと、普段の暮らしにおいてもちょっと変わってくるところがある。
七沢さんにとっての「#現実とは」
藤井 最後に、七沢さんにとっての現実とは何でしょうか?
七沢 はい。僕にとっての現実とは宇宙技芸の賜物です。
藤井 皆さんに、簡単に説明していただけますか?
七沢 今日は西洋東洋みたいな比較で話をしましたけれども、人はそれぞれが実はコスモロジーを背後に背負っていて、そのコスモロジーには技術的なものも必ず重なっている。なぜなら、技術というのは生きるための知恵で根源的なものなので宇宙論とも密接に関わるんですよね。
なので、その宇宙技芸がその人の生き方に現れるし、その宇宙技芸が現実を形作っているんです。宇宙技芸の賜物として現実は立ち現れているということですね。
なので、皆さんがどういう技術を使うのか。スマホを使うのか、手放すのか。普段も暮らしにおける技術をどう発揮させるのか、そこにはどういう思想があるのか、どういう宇宙技芸をもとにして生きるのか。それが現実を形作る。そこに意識的になっていただきたいし、僕自身も意識的になっていきたい。
藤井 僕も、10月の西表島のセッションに参加するので。テクノロジーをはぎ取った状態の、生の人間になってみようと思います。
(テキスト:ヨシムラマリ)
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