現実科学レクチャーシリーズ

Vol.72 藤野 正寛さんレクチャー(2026/6/26開催)

2026年6月26日、「現実科学レクチャー Vol.72」が開催されました。本ページでは、当日のレクチャーの様子をレポートとしてお届けします。

REPORT

※本稿では、当日のトークの一部を再構成してお届けします。

死を恐れる私への問い

藤井 本日は藤野正寛さんをお招きしています。藤野さんは瞑想の実践者として、普通の人がたどりつかないような深いところまで潜っていらっしゃるので。特に30日間の瞑想のお話はちょっと驚きですから、今日はいろいろとお伺いできたら嬉しいなと思っております。

藤野 ご紹介ありがとうございます。僕は普段は瞑想を実践しながら、そこで出てきた問いを元に認知心理学的な手法やMRI装置などを使って瞑想のメカニズムを解明するという研究に取り組んでいます。

僕にとっての大きなテーマは、「死とは何か」「死をどのように受容すればいいのか」というものですが、そもそも死と向き合うようになったのは、19歳の時に両親から「お前は病気を抱えているよ」と伝えられたのがきっかけです。発症しなければ症状は出ないけど、一定の確率で発症するし、発症すると一定の確率で重症化するし、重症化すると一定の確率で死んでしまう可能性がある。それが衝撃で、しばらくはずっとへこんで落ち込んで、いろいろと考える日々を過ごしました。

でも、徐々に冷静になっていく中で「ちょっと待てよ」と。「その病気で死ぬ確率は結構低いな」と。「むしろ交通事故や他の病気で死んでしまう確率の方が高いのに、なんで僕はその病気で死ぬことだけを恐れているんだろう」と考えるようになりました。そこから、何か正しく死を恐れることができていないんじゃないか、どうすれば死を受け容れられるのか、ということが大きなテーマになってきました。

向かう先は外ではなく自分の内側

藤野 その後、旅に出たりしながら自分なりに色々と探求したのですが、10代、20代の人間がすぐに答えを見つけられるわけもなくですね。そのまま大学を卒業して、医療機器の会社に就職して、経営企画管理の仕事なんかをしていたんですけれども。2007年に、かつて20世紀最大のシャーマンだったマリア・サビーネがウアウトラ・デ・ヒメネスでマジックマッシュルームのセレモニーをしていたこと。そのサポートをしていたイネスという人がまだそこでセレモニーをしていることを聞いて、いてもたってもいられなくなって。会社を2週間ほど休んですぐにメキシコに飛びました。

それでなんとかイネスの家にたどりついて、セレモニーを受けられることになりました。6畳くらいの部屋に通されると、祭壇にブラック・マリアが飾られていて、その前にバナナの葉が置いてあって、その上にとれたてのマジックマッシュルームが20本くらい並んでいて、「好きなだけ食べなさい」って言われて。

そのキノコを食べた後に、せっかく自然豊かなところで月も出ているから「外に行っていいか」と聞いたら、イネスが「そんなことしちゃダメだ」って言うんですね。そんなことをしたら、覚醒した意識がすべて外の刺激に振り回されて終わってしまう。そうではなくて、その意識を全部内側に向けなさい、内側にしか答えはないから、と教えてくれて。その体験がきっかけで、内側を探求するためのツールやメソッドに興味を持つようになりました。

膀胱とのコミュニケーション

藤野 で、まあ会社を休んではインドに行ってヨガをしたり、マジックマッシュルームよりさらに覚醒作用が強いと言われているアヤワスカを使ったリトリートに参加するために、それの扱い方を知っているシャーマンを訪ねてペルーに行ったりしました。

その中で面白い体験があって、膀胱とコミュニケーションがとれたんです。当時、僕は上海で駐在員をしていまして、トイレに行きたくてもなかなかトイレが見つからないという状況で、かつ様々なプレッシャーやストレスもあって、頻尿になっていたんですね。普通は8〜9割くらい膀胱に尿が溜まったら尿意を催して、その時にトイレに行けばいいはずなのに、徐々にそのアラームが鳴るタイミングが早くなって、3割くらいでも鳴るようになっていたんじゃないかと思うんですけれども。

それはアヤワスカのリトリート中も同じで、尿意を催し始めたんですね。でもこの建物でトイレに行きたくなったら、橋を渡って隣にあるボットン便所まで行かないといけないから、なるべく行きたくない。アマゾンのジャングルの夜のボットン便所にライトを持って入るとかなりやばいんですよね。それでどうしたかというと、変性意識状態で何とか膀胱とコミュニケーションをとりはじめました。「そもそも尿は溜まってるの?満タンなの?」って聞いたら「いや、そんなことない。30%か40%くらいだ」って返事がきて。「そしたら、溜まったらちゃんと行くから、溜まるまでアラームを出さなくていいよ」って伝えたら膀胱が納得してくれて、尿意がなくなるという経験をしました。

で、その後で上海に戻ってからも頻尿がなくなっていたんです。これは、自分の無意識の領域に降りていって、何か自分でチューニングできたという初めての体験でした。

内側と外側の境目が消えるという体験

藤野 実は、通常の意識状態で深い無意識状態を思い出すのというのは、とても難しいことなんです。感覚的には、目が覚めた時には夢の内容を覚えているんだけど、トイレに行った瞬間にはもう忘れているという感覚に近いです。でも忘れているからといって、無意識の領域にアクセスしていること自体が無意味かというとそうではありません。先ほどの膀胱とのコミュニケーションもそうですけど、深い領域にアクセスしてチューニングして元の意識状態に戻ると、日常生活をより楽に、快適に生きていくことができるようになるのかな、と思います。

もうひとつ面白かったのは、内側と外側の境界が消失するような体験です。ペルーでの2回目のリトリートに参加していた時に、1ヶ月間ずっとアヤワスカを飲む日々を送る中で、体の緊張やノイズが減っていき、心のストレスやノイズが減っていき、普段はとても狭い内側の世界がどんどんどんどん広がって、外側の世界とほぼ等価になるような体験をしました。

内側と外側を仕切っている薄皮のようなものの上に立って両方に気づいている。で、その状態からさらに進んでいくと、境目も完全になくなって、世界そのものになるような。その世界ではすべてが繋がって、影響しあっていて、それでいてとても静かな世界でした。これは本当に言葉ではうまく表現できないんですけれども、何か世界そのものとしか言いようのない感覚を味わうことができました。

注意制御力を高め感覚を観察する

藤野 1回目のアヤワスカのリトリートを受けたのと同じ年に、京都のヴィパッサナー瞑想にも参加しました。これは10日間の瞑想リトリートになっていて、その間は一切誰ともコミュニケーションを取らず、スマホやパソコンも使わず、読み書きもせず、朝4時に起きて夜の9時に寝るまで1時間から2時間の瞑想を合計10時間くらい行います。

最初の3日間は、集中瞑想といって、呼吸に意識を向け続ける瞑想を行いました。でも、ものの数秒で何かに注意がとらわれて、そのことに気づいたら何とか呼吸に戻ってくる。これを延々と3日間続けていると、注意制御力が高まってきます。

残りの7日間は、洞察瞑想といって、その高まった注意制御力を使って、体の感覚を観察していく瞑想を行いました。頭のてっぺんから順番に、コインくらいの範囲を動かしながらそこに何があるかを観察するんですけれども、最初は上から下まで2時間かかってもいけません。慣れてくると1時間でいけて、下までいったらまた上に戻ってくる。これを1日10時間、7日間続けます。

この間、感覚に気づくことも大切ですが、より大切ことは気づいた感覚を使って、そういった感覚が実は自分では全く思い通りにコントロールできないものなんだということや、放っておいてもいずれ消えるものなんだということを体験的に理解することでした。それを体験的に理解すればするほど、次に似た感覚が出てきた時に「そっと見守っていたら良いよね」と距離を置けるようになっていくわけです。

そうして、最終日に、慈悲瞑想といって、少しだけ生きとし生けるものの幸せを願う瞑想を行って、コースは終了しました。

瞑想時に特有の脳活動がある

藤野 でもこういうことをして戻ってきて、「出てきてから日々ほんのり幸せなんですよね」なんて言うとですね。同僚に引かれたり、オカンから「壺とか買ってないわよね」と言われたりして、あまりにも偏見が大きすぎてもったいないなと思いまして。みんながみんな瞑想をする必要はないけれど、それをすることで楽になるはずの人もアクセスできない状況がある。それで、会社に辞表を出して、大学に入り直して、瞑想の研究を始めました。

ひとつだけご紹介すると、MRIを使って瞑想中の脳活動を調べるという研究で、集中瞑想と洞察瞑想をしている時に特有の脳活動があることが分かりました。例えば、腹側線条体と視覚野の機能的結合性。これは特定の対象に注意を集中することに関わる領域だと考えられていて、これが集中瞑想で一点に集中する時には高まっている。逆に、洞察瞑想のように広い範囲でいろんなものに気づいている時には低下していることが分かりました。

もうひとつは、腹側線条体と脳梁膨大後部皮質の結合性です。ここは、記憶や感情との同一化、何か感情が生じた時にそれを主体的に体験するのか、客観的に体験するのかの切り替えに関わる領域だと考えられています。これが、洞察瞑想の時だけ低下している。まさに、自分の中に生じてきた記憶や感情に同一化してとらわれるのではなくて、それをただありのままに見守ることに関わっている脳領域かもしれない、ということが見えてきました。

多くの人が瞑想というとメタ認知を思い浮かべると思うんですけれど、それだけでは足りないわけです。例えば、怒りで我を忘れて暴言を吐いている人は、自分は怒っているんだと認知できたとしても、怒りと同一化している状態です。そこからどれくらい自由になれるか、客観的になれるかが重要なんですね。

私がない状態の私

藤野 科学的な検証も進めつつ、それをより深く実感できたのが、最初に話題に出た30日間の瞑想リトリートでの体験になります。一切のコミュニケーションを取らずに、フォーマルな瞑想は1日10時間なんですけれど、それ以外の時間も歩いている時は足元しか見ない。食べている時は手元以外見ない。座っている時は目を閉じるというふうにですね。目から入る情報量が非常に多いので、とにかく余計なノイズが入らないようにして、情報量を減らして、何をやっている時も常に注意を集中して感覚に気づき続ける、ということをやりました。この状態になると、眠っている間もある程度は夢を見ていることに気づけるようになるので、最終的には1日20時間くらいは瞑想をしているという状態になります。

その中で、思考こそが私だと思っていたのですが、そうじゃないんだと気づくようなことがありました。思考そのものを直接なくすのはとても難しいんですね。でも、感覚器官への刺激によって感情や思考が生じてくるのですが、それらが生じてくるスペースをすべて身体感覚で埋め尽くしていくと、思考が入る余地がなくなっていくんですよね。そのためにすることは、ただ感覚に注意を向け続けるということなんです。

それがどんどんできるようになってくると、最終的に思考が完全になくなる状況が起きることがあります。その私だと思っている思考がなくなった状態になった時にですね、それにも関わらずまだそこにスペースがあることに気づけている、というのを感じたんです。そしてそのような私がなくなった状態は、それまで感じたことのないほどの静けさでした。

苦しみを感じている私を変える

藤野 僕たちは普段、何かに直面して苦しみを感じた時に、その対象を何とかしようとします。ところが、仏教瞑想では苦しみを感じている私を変えるんだと考えられているわけです。ここが、仏教瞑想の一番ラディカルでおもしろいところだと思います。もう少し正確にいうと、強固な「私」という認識をどんどんどんどんゆるめていくことを目指します。そのための方法が、自然の摂理を体験的に理解することです。

それに関連する仏教の経典が四聖諦、四つの聖なる真理と言われているものです。その四つは、「生きることそのものが苦である」、ただし「苦には必ず原因がある」「その原因がなくなれば苦もなくなる」、そして「原因がなくなるための智慧がある」というんですね。

仏教には三つのタイプの智慧、あるいは理解があるんですけれども、一つは本を読んだり、人から聞いたりして得られた理解。二つ目は、自分の頭で考えて得られた理解。そして三つ目が、実際に修行をして体験して得られた理解です。中でも三つ目が大事で、徹底的に修行して体験的に理解しないといけない、そうしないと苦しみはなくならないと考えられている。じゃあ、何を体験的に理解しないといけないかというと、それが自然の摂理である「無常」「無我」なんだと言われています。

すべては無常であり無我である

藤野 そのことをもう少し説明すると、僕たちは普段あまり死というものを意識せずに生きています。まあ、考え出すと仕事も何も手につかなくなってしまうのでそれはとても理にかなっていることなんですけれども、そうすると何が起きるか。基本的に自分は死なないだろう、過去も現在も未来も何か首尾一貫した私というものが存在していて、その私は思い通りになるに違いない、という自己観が立ち現れてきます。

ところが、自然の摂理は無常であり無我です。無常というのは分かりやすくて、全ては変化し続ける、生じては消えていくものなんだということです。これは皆さん、頭では理解できていると思うんですけれども、実際に自分が老眼になったり、シワが増えたり、白髪が出たりするとものすごい抵抗を感じますよね。

無我というのは、コントロールできないものは自分ではない、と定義すると少し分かりやすくなります。例えばこのスマホは触らなければコントロールできませんが、そのことに僕らはイライラしたり悲しくなったりしません。自分じゃないと分かっているからです。

では、自分の体の感覚はどうでしょう。かゆみや痛みなんかも、思い通りにコントロールはできません。そうすると、実は自分の体の感覚も自分ではなかったりするわけです。感情なんかもそうですね。そして、思い通りになると思っているものが思い通りにコントロールできないことにイライラしたり悲しくなったりしてしまう。その思い通りになると思う範囲が広がっていき、自分の子供や部下、パートナーに対しても、思い通りにならない時にイライラしたりするわけです。

体験的な智慧を深め、ラスボスと立ち向かう

藤野 で、そのことをゴータマ・ブッダは苦だと表現したわけです。苦というのは精神的、身体的な痛みというよりも、もっと広い意味での不満足のことです。例えば美味しいものを食べていても、もっと食べたいなと不満足が生じてしまう。そして、その苦には原因があるよと言いました。それがこのギャップです。

ギャップを縮めるには、自然の摂理を自己観に寄せるか、自己観を自然の摂理に寄せるか、どちらかしかありません。自然の摂理を寄せられない以上は、自己観をゆるめていく必要があります。それをゆるめるための方法が瞑想です。

そのために僕たちは注意集中力を高めて、自分の中で起きている感覚や感情をひとつひとつ観察しながら、それはコントロールできないんだと体験的に理解したり、あるいは放っておいてもいずれ消えてなくなっていくんだ、ということを体験的に理解したりしていくわけです。そうすると、次に似たような感覚や感情が出てきても、これはコントロールできないし、放っておいてもいずれなくなるから、そっと見守っておいたらいいよね、と客観的にそれと距離を置けるようになっていきます。

このように瞑想を繰り返すと、回を重ねるごとに少しずつ深いところに行けるようになります。そうして深まるほど、より大変なもの、自分の存在に関わるようなストレスや緊張であったり、何かトラウマティックな記憶であったりに向き合えるようになっていきます。

やればやるほど大変になることをやることに意味があるのかと思うかもしれません。でも僕はやる意味があると思っています。それは、すべての人が人生の最後には死と向き合わなければいけないからです。死とは無常と無我と苦の一番大きな現れ、ラスボスのようなものです。そのラスボスと向き合うために、日々さまざまな感覚や感情を使って、それが無常であり無我なんだという理解を深めていく。そうする中で、いつか立ち現れてくる死を受容できるようになるのではないかと考えています。

瞑想が日常にもたらす影響

藤井 ありがとうございます。瞑想リトリートで得られた感覚や体験というのは、日常生活ではどのような形で残っているんですか?

藤野 よくアクセルとタイヤの状態で説明するんですけど、僕らは「今から集中しよう」と思ってアクセルを踏んで、集中状態のタイヤを回す、「集中をやめよう」と思ってアクセルをはなすとタイヤが止まる、こういうことはよくできるんですね。

でも、これまで生きてきた中で、いろんなアクセルを何回も踏みまくったせいで、知らない間に踏みっぱなしになっているアクセルがいっぱいあるんだと。そうすると、例えば母親から何かを言われると自動的に感情が生じて、自動的に言葉が乗っかって喧嘩になる、というようなことが起こります。

瞑想リトリートで自分の体と心を観察していくと、こんなところでアクセルを踏んでいたんだと気づけるようになる。で、ただそのアクセルを見守っていると、ゆるめられるようになっていく。それで日常生活に戻ると、気づけば母親から何かを言われてもイライラの感情が出てこなくなったり、喧嘩をしてもすぐ感情が戻ったりということが起きるようになる、ということがありますね。

意識と無意識はどこにある?

藤井 瞑想している時の無意識ってどこにあるんですか?やっぱり、意識的な自分がそこにいるんですよね。それを探索している主体というのが。

藤野 禅とヴィッパサナー瞑想の違いでもあるんですけれど、禅の「何もしないで座る」っていうのは、無意識で踏んでいるアクセルもはなすっていうところまで射程に入れた深さだと思うんですね。でも、それだとアーティスティックになるというか、できる人は一部いるけど、ほとんどの人は何をやっていいか分からない状態になります。

一方で、ヴィッパサナー瞑想では、無意識に踏んでいるアクセルに気づくために、集中力や気づく力を高めるアクセルを踏んでいくという感じです。それで、自分の中の緊張に気づけるようになってきて、それに気づいた時に見守っているとその緊張がゆるんでいくということが起きるんですね。

意図的にやっているように見えますが、それによって無意識に踏んでいるアクセルを離すような状態になります。それでどこに無意識があるかと言われると、体や心をただ見守っていると、普段の意識では気づいていなかった感覚や感情が浮かび上がってくることがあるんですね。そのように、瞑想における無意識というのは、意識のほんの少し先にあるのかなと思っています。

無意識へのアクセスと自由意志

藤井 瞑想している時の私というのは、潜っていっているのが私なんですか?それとも私ではない、意識していない無意識の方に潜りつつあるんでしょうか?

藤野 感覚的には、私を手放していくほど深いところにいける感じではありますね。

藤井 手放すとゆるめるというのは同じ?

藤野 そうですね。何か強固にがんじがらめになっている私をひとつずつ手放していくとゆるまっていくイメージなんですけど、そうすると無意識的にやっていることに気づけたり、意識的に関われるようになったりということが起きるので。

藤井 ある意味、意識の領域が広がっているということでしょうか。

藤野 そんな実感があります。藤井さんは最初に「無意識レベルで動いている以上は自由意志がない」とお話しされていましたけど、それを聞きながら、もしゴータマ・ブッダが悟った状態っていうのが、全部の無意識にアクセスできる状態だとしたら、それは自由意志があったと言えるのかもしれないなぁと思ったりしていました。

死にゆくプロセスを観察する瞑想

藤井 瞑想するというのは、それによってする前よりはおそらくいい人生になるからっていうことなのかな。

藤野 僕の好きなチベットのお坊さんの話があってですね。彼らの世界観では輪廻が前提となっていて、その輪廻をしたくないと。で、輪廻をしないための大きなチャンスが死にゆくプロセスにあるんだというんですね。死ぬ瞬間にだけ見えてくる心の動きがあって、それに反応すると「はい、次」で生まれ変わってしまう。そこで反応しなければ解脱できるんだっていう考え方があるんです。それで、トゥクダムっていう死の瞑想をするんですね。死にゆく時に。

だからチベットのお坊さんの中には、ガンの宣告をされたときに「ついに来たか」ってテンションが上がる人がいるそうなんです。「だって俺、このためにずっとやってきたからね」みたいな。ずっと積み重ねてきた集大成がそこにあって、例えるならドラクエのレベル上げをしてラスボスの部屋に入るようなワクワク感があるという。

藤井 ああ〜、それは分かるわ。輪廻からいかに上手く解脱するかっていうチャレンジだと考えると面白い。生涯をかけた遊びとしては最高の部類じゃないですか。何でみんな瞑想するのかなぁ、よく分からないなぁと思っていたけど、今のは腹に落ちました。

現実とそうではないものの区別とは

藤井 現実とそうでないものは、瞑想の中で区別はあるんですか?

藤野 あまりないですね。瞑想中にはあらゆることが起きると考えられていまして、中には「こんなことが起きました!」って先生に報告したくなる人もいるんですけど、先生は「あ、そういうこともありますね。じゃあ呼吸に意識を向け続けてください」って。

藤井 冷たい(笑)

藤野 何が起きたとしても、あらゆる事象は共通する性質を備えていて、それは無常であり、無我なんだということです。現実で起きていることだろうが、妄想だろうが、感覚や感情、思考だろうが、すべては思い通りにならない。なので、そのプロセスの中では現実かそうじゃないかは問われない気がします。

藤井 その中で、他者はどのような存在ですか?

藤野 現実だろうが現実でなかろうが、いかに苦しみを減らすかがポイントになるので。その苦しみは実は自分一人だけで減らせるわけではなくて、全部のつながりの中で減らしていこうとすると、周りの人の苦しみも重要になると思います。

藤野さんにとっての「#現実とは」

藤井 最後に、藤野さんにとっての「現実とは」をお願いします。

藤野 言葉にするのは難しいですけれど、私というものをありありと実感してしまう世界と、私がなくなった先にある全てが影響しあっているけれども静かな世界、この間を行ったり来たりすることが現実なのかなと思っています。そして、できる限りその二つ目の現実に近づいていくことが、僕が目指す「いつか立ち現れる死と向き合えるようになること」じゃないかと思って、日々の瞑想を続けております。

藤井 私がなくなるっていうのは、死ぬっていう意味じゃなくてね。今はゆるんでいる私とゆるんでいない私を行ったり来たりしているんだけど、ゆるみきった私、つまり瞑想の究極の、私を手放した瞬間にもまだ残っているものがある、と。

藤野 はい、そこにあるように感じています。

(テキスト:ヨシムラマリ)